仏法と師匠への求道の心こそ成仏の肝要
今回学ぶ「千日尼御前御返事(雷門鼓御書)」の後半では、日蓮大聖人と千日尼の師弟の温かな心の交流を拝し、「心こそ大切」と仰せの尊い意義を心に刻んでいきましょう。(池田SGI会長による本抄の講義は、『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻〈聖教新聞社〉に収録されています)
〈本抄について〉
本抄は、弘安元年(1278年)閏10月19日、日蓮大聖人が身延の地で認められ、佐渡の千日尼に送られたお手紙です。
千日尼は、大聖人が佐渡に流罪されていた折、夫の阿仏房と共に大聖人を命懸けでお守りした純真な女性門下です。
大聖人が身延に入山されて以降も、阿仏房は幾度も御供養を携えて、はるばる身延を訪ねています。大聖人は、そのたびに、夫を送り出して留守を守る千日尼の労苦を思いやり、お手紙を託されました。
大聖人は本抄で、千日尼の御供養に感謝し、変わらぬ真心を称賛されています。そして、遠い佐渡の地で留守を守る千日尼に対し、雷門の鼓が「千万里」を越えて即座に聞こえたように、“あなたの心は身延にまで来ていますよ”と、温かく励まされています。この譬えから、本抄は「雷門鼓御書」とも呼ばれます。
拝読範囲の大意(御書1316ページ8行目「譬えば女人の」~1317ページ最後)
妙法には、人が一生の間に作る罪を変毒為薬する力があることを、譬えを通して示されます。
そして、天空の月が瞬時に池に影を浮かべるように、また、古代中国の「雷門の鼓」の音が遠い距離を越えて直ちに伝わったとされるように、千日尼の身は佐渡にあっても、その心は日蓮大聖人のおられる身延にまで届いていると励まされます。
さらに、成仏の道もこれと同じであり、妙法を持つ人は、穢土に住んでいても、心は霊山浄土に住んでいると述べられます。そして、成仏においては、「心こそ大切」であると結論されます。
〈御 文〉
譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ
(御書1316ページ15行目~18行目)
〈通 解〉
譬えば天空の月は遠く四万由旬も離れていますが、大地の池には瞬時に影が浮かび、雷門の鼓は千万里の遠くにあっても打てば瞬時に聞こえます。あなたの身は佐渡の国にいらっしゃいますが、心はこの国に来ています。
仏に成る道も、これと同様です。
私たちは、けがれた国土におりますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お会いしたからといって、どうなりましょう。心こそ大切です。
〈解 説〉門下の尊い真心を最大に称賛
「心こそ大切」――信心において、最も大切なのは「心」です。なかでも、師弟の心の絆こそ重要です。
本抄を頂いた千日尼は、佐渡から遠く離れた身延の日蓮大聖人のもとに、毎年のように夫の阿仏房を送り出し、御供養をお届けしてきました。
大聖人は、この千日尼の真心を、法華経、釈迦仏、多宝仏、さらに十方の諸仏もご存じですと、たたえられています。 師匠を求める心は距離を超えて通じていきます。大聖人は、そのことを譬えを通して教えられます。すなわち、天の月は遠く離れていても、その影は即座に地上の池に浮かびます。また、古代中国の「雷門の鼓」は、その音が遠い距離を越えて瞬時に伝わったといわれます。
これと同じように、千日尼の身は遠く離れていても、その真心は大聖人のもとに届いていると示されています。
さらに大聖人は、「仏に成る道」も同じであり、私たちの身は「穢土」にあっても、心は共に「霊山」に住んでいると仰せです。
すなわち、「穢土」という苦悩に満ちた現実世界のなかで、仏法のため、師匠のためにと行動する心は、そのまま、仏の住む「霊山」に届いていると教えられているのです。
大聖人の仏法では、いかなる環境や苦難の中にあっても、信心によって自身の胸中に尊極な仏の生命を現すことができます。
当時、千日尼は、これから先、大聖人とお会いできないかもしれないと思っていたとも考えられます。佐渡から身延までは、海を越え、いくつもの山を越える遠い道のりだからです。
そんな千日尼にとって、“心は、いつも私と共にありますよ”との師匠の励ましは、どれほどの勇気と希望の源となったことでしょう。
「御面を見てはなにかせん」と仰せの通り、信心は、師匠に会えるか会えないかという形式で決まるものではありません。大聖人は「心こそ大切」と仰せです。どこまでも仏法と師匠を求める「心」にこそ、成仏の道があるのです。
池田SGI会長は、師弟について、こう述べています。「私と一緒に、広宣流布への決意を新たにし、頑張ろうとしてくれている。それは、日々、私と、心で対話していることです。私と戸田先生もそうです。毎日、常に、心で戸田先生と対話しながら戦っています」と。
私たちも、日々、心の中で師匠と対話しながら、誓願の祈りを根本に前進していきましょう。
〈理解を深めよう〉妙の一字の功徳
日蓮大聖人は本抄で、あらゆる罪や不幸を変毒為薬する力が妙法にあることを、譬えを通して示されています。
「譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し」(御書1316ページ)との仰せでは、人が一生の間に犯す数多くの罪を“枯れ草”に、「妙の一字」の功力を“小さな火”に譬えられています。
小さな火であっても、枯れ草につけると、一気に燃やし尽くします。同じように、「妙の一字」は、わずか一字であっても、多くの罪を消し去る力があるのです。
ここで枯れ草に譬えられている“一生の間の罪”は、日々の生活で直面する悩みや苦しみを指すと拝されます。 “題目を唱え抜いていけば、どんなことも必ず乗り越えることができる”――この確信で前進していく時、小さな火が次から次へと枯れ草を燃やしていくように、妙法によって悩みや不安が消え去っていくのです。
しかも大聖人は、多くの草が燃えれば、大木や大石までが焼き尽くされると仰せです。重い宿業も、不幸の根源である元品の無明も、妙法根本に必ず乗り越えていくことができるのです。
変毒為薬は、苦しみの生命(毒)が、そのまま、幸福の生命(薬)に転ずることを示しています。それは、人生におけるマイナスが、いわばプラスへと転換することです。この妙法の偉大な功徳を確信し、自他共の幸福を願って、朗らかに仏縁を広げていきましょう。
〈SGI会長の講義から〉
仏に成ったからといって、悩みがなくなるわけではありません。穢土を避けることもできません。しかし、ありのままの人間でありながら、その胸中に崩れざる絶対的な「幸福境涯」を築くならば、不幸に泣くことは断じてありません。
「心は霊山に住べし」とは、いかなる環境や悩みにも振り回されない尊極な仏の生命を、私たちの胸中にも涌現することができると教えられているのです。
◇ ◆ ◇
私は、いついかなる時も、どこにいても、常に戸田先生と対話しながら戦っています。「不二」は、自分の中にあるのです。不二の師弟は、距離を超え、時間を超えます。「師弟の心」は、永遠に共戦の歴史を綴っていきます。この「心こそ大切」の大哲学を掲げて、広宣流布の連続闘争に前進していきましょう。
(『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻)
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